「シラーの詩、シューベルトの「希望」、エンデの「モモ」」

僕は割とシューベルトの作品が苦手で、実は人前で今までほとんど歌っていません。大好きなんですけどね。聴くのは好きだし、歌うのも好きでよく練習しているんですが、演奏会でお聴かせするところまで行かないんです。

簡単に言ってしまうとうまく歌えないという言い方もできますが、僕の事情としては割と複雑です。
僕が楽に歌える歌曲作品というのは、R.シュトラウスの作品をまず挙げることができます。それからJ.ブラームスもかなり気持ちの自然なところでできる。H.ヴォルフは難しいんだけど、歌う段になると結構ナチュラルに歌えます。
演奏する頻度で言うと、ダントツで多いのがR.シューマン。でも、最近一度、R.シューマンの歌曲への自分の適性をちょっと疑っていた時期がありました。最近はもうちょっと楽観的になっているけど。でも、R.シューマンは大好きです。
R.シュトラウスの作品は、前奏が始まってしまうと、もう何も考えなくてもどんどん歌えてしまう感じ。曲への姿勢を自分で意識して作る必要が無くて、R.シュトラウスの世界に気がついたらもう入り込んでいる感じです。僕にとって彼の作品は自然なんですね。

これの対極にあるのがシューベルトで、歌う前に曲と自分の関係について考え込んでしまうのです。距離があると言えばそうだし、馴染みにくいと言われればそうなんだけど、問題は僕がシューベルトの作品が大好きだと言うことなんです。だから「向いてないんだ」とあっさりあきらめるわけに行かない。
逆に言えば、僕がシューベルトを歌いにくく感じるところに、何が僕の演奏者としての弱点とか秘密があるのかも知れない。そう思うと、やっぱり放っておけない。
R.シューマンへの適性を疑ったのも、シューベルトと関係があって、どうもシューベルトにおける難しさを部分的にR.シューマンでも感じるんです。 R.シューマンの場合は、演奏へ、あるいは演奏における抵抗感は無いんだけど、自分の演奏の録音を聴いて「?」と思う部分があります。まぁこれは今は置いておきましょう。ただでさえ、すごく長くなりそうなテーマだから。

この間、土曜日の午後、ダーメンテー(Damentee)という劇場の小さな催しに出ました。これは直訳すると「ご婦人のお茶の時間」みたいな感じですが、お客さんは女性のみです。劇場の演出助手で元歌手のアンゲリカ・ポーザー=ケッチュさんがやっているシリーズです。タイトルの通りですが、お客さんはテアター・レストランでティーカップを片手に、ポーザー=ケッチュさんとゲストのお話と演奏などを楽しむという、気軽に楽しめる会です。今回80回目を迎えるという事で、少し規模を大きくして、普段ゲストを一人呼ぶところを5人呼んでの開催となりました。

同僚のバス歌手フーゴー・ヴィークも呼ばれていたんですが、体調が悪くて、歌うはずだったシューベルトの歌曲を歌えなくなりました。で、僕が「僕がそれ、歌いましょうか?」と言ったら、とても喜んで「是非お願いします」と言うことで、なんと歌う3時間前に楽譜を受け取って歌うことになりました。
これがシラーの詩による「希望」という歌曲だったのです。

ご存知の方も多いかも知れませんが、今年はこのヴィルヘルム・フリードリヒ・シラーの没後200年になります。それで、このダーメンテーでもシラーを取り上げることになり、フーゴーもこの「希望」を歌うことにしたわけです。
ついでに言うと、シラーはゲラの近郊イェナの大学教授として教え、これもゲラの近郊ヴァイマールで数々の大作を書き上げています。念のために言うとベートーベン第九交響曲の第4楽章はこのシラーの詩によるものです。
ゲラに住んでしょっちゅう第九を歌っている僕としては、関わりが結構ある詩人なわけです。

その関わりが、ここに来てぐっと深くなりました。
またシュタイナーの人智学の話になりますが、人智学の芸術学、美学に関する本を今読んでいるところなんです。もう少しで読み終わるけど、これもかなり難しい本でした。

シュタイナーという人は教育者は「教育芸術」の実践者でなければならないと説いています。それだけでなくて、この人智学の思想の根底部分に「美」に対する熱い思いと深い洞察があるのです。そして、シュタイナーのこの美に対する姿勢に決定的な影響を与えたのがゲーテ、そして少なからずシラーなのです。

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シュタイナーは「新しい美学の父ゲーテ」という、いまだにその新しさを失っていない素晴らしい講演をウィーンでしています。なんと27歳の若さでこの深い認識に至っていたことは驚くばかりですが、その中にゲーテとシラーの言葉が多く引用されます。
これ、全部説明したくなるくらい素晴らしい講演なんだけど、それをやっていると本題に行けないので、ここではほんの一部に触れますね。でも、興味ある方は是非是非読んで下さい。筑摩書房から、高橋巌さんの訳で出ている「シュタイナー・コレクション」という新しいシリーズの最終巻「芸術の贈り物」の冒頭に収められています。ドイツ語の原文はインターネットで公開されています。

普通に考えて、歌曲というのは、オペラなどよりもずっと内的確信を持たないと歌えないので、初見で歌うなどはもってのほかだし、歌詞への深い理解なしに歌っても全然意味がありません。僕はすくなくともそう思っている。でも、なぜ良く知らない曲を3時間の準備で「歌います」なって言っちゃったのか。
一つはシラーへの興味が増していたことです。前述の理由で、僕にとって主に「第九の作詞者」だったシラーが、思想家、美学者として重要になってきた。
もう一つはフーゴー。小難しい話があまり好きでない人が多いソリスト人の中で、彼はいわゆるインテリで、ハリー・クプファーのアシスタントをしていたこともあり、演劇論にもかなり詳しい。そして何と言ってもドイツ歌曲をこよなく愛する人なので、僕は結構話が合って、時々ディスカッションなどもするのです。その彼が選んだ曲、という事で興味が湧いた。

実際素晴らしい作品でした。僕の芸大での師である原田茂生先生もこの曲が好きでこれをアンコールなどで取り上げていたという話を友人に聞いたことがありました。決して有名な曲でないと思うんだけど、原田先生監修のシューベルト歌曲の楽譜にはちゃんと収められています。
僕は、楽譜をもらったとき、もう本番3時間前だったので、とにかくリズムと音程をまず読むことに集中し、そして歌詞を読んでみました。そうしたら、ぴーんと来たのです。
「これは『モモ』だ!」

モモとはミヒャエル・エンデの小説のモモです。エンデはシュタイナーへの深い傾倒で知られていますが、彼の作品も人智学と大きな関わりを持っています。子安美智子さんが「『モモ』を読む〜シュタイナーの思想を地下水として〜」という本を出していらっしゃるけど、この中で詳しく述べられています。これも大変面白い本です。モモを読んだことのある方は一度読んでほしいなぁ。
モモの中で、この資本主義社会の中で時間に追われて心をなくした現代人が痛烈に風刺されていることはご存知の方も多いと思います。そして、まさにこのテーマがこの「希望」という歌曲にも取り上げられている、と僕は思ったのです。

で、その解釈に従って3時間でできる範囲で表現を試み、演奏しました。それはうまく行ったと思います。そして、そのあと家に帰ってきて、大歌手フィッシャー=ディースカウのシューベルト全集についている対訳を見てみて愕然としました。全然僕が考えていたのと違う訳になっているのです。

対訳というのは、もちろん日本語に置き換える作業でありますが、訳をする時点で「解釈」する必要が出るのが普通です。つまり、日本語に訳した時点で、訳者の解釈が強く反映され、その訳を読む日本人の読者には訳者の解釈以外の受け取り方をするのは、ほとんど不可能ですね。で、その訳者の解釈が僕の解釈と全然違って、あんまり違うんで愕然としたのです。
この訳をされた方は多くのドイツ語の書籍を日本語に訳されている方で、大変評価も高い方だと思います。事実訳されたものもきちんとしているし、これは「正しい」のだと思います。でも、僕はちょっと納得がいかなかったので、フーゴーにちょっと聞いてみました。

そうしたら、フーゴーの意見もこの対訳と同じなのです。僕は納得がいかなかったので「こういう事はあり得ないのか?」と僕の解釈を説明しました。「いや、それはあり得ない」という話だったんだけど、僕も僕なりに理屈で考える方だから、理詰めで細かく説明していくと、フーゴーも「うーん。本当はそうなのかも知れない・・・」みたいな感じになって来ました。魔笛の立ち稽古のあとにアルテンブルクの楽屋で長時間討論してしまった。

抽象的な話をしていても仕方ないから、内容を示してみますね。

まず、シラーの原文とそのCDについていた対訳


Hoffnung

Es reden und träumen die Menschen viel
Von bessern künftigen Tagen,
Nach einemglücklichen goldenen Ziel
Sieht man sie rennen und jagen.
Die Welt wird alt und wird wieder jung.
Und der Mensch hofft immer Verbesserung.

希望

将来のよりよい日々のことを
人々はいろいろと語り夢見る。
幸福な金色に輝く目標を
人々は求め急いで行くようだ。
世界は古くなり、また若がえる、
だが人間はいつも向上を望んでいる。


Die Hoffnungführt ihn ins Leben ein.
Sie umflattert den fröhlichen Knaben.
Den Jüngling begeistert ihr Zauberschein,
Sie wird mit dem Greis nicht begraben,
Denn beschließt er im Grabe den müden Lauf,
Noch am Grabe pfanzt er die Hoffnung auf.

希望が人間にこの世の生を与え 希望が朗らかな子どものまわりにはためき、 希望の魔法の光が青年を引きつけ 老人になっても希望は埋められはしない。 なぜなら老人は墓で疲れた生を終える時にも、 まだ墓の傍らにー希望を植え込むものだからだ。
Es ist kein leerer schmeichelnder Wahn, Erzeugt im Gehirne des Toren. Im Herzen kündet es laut sich an: Zu was Besserm sind wir geboren! Und was die innere Stimme spricht, Das täuscht die hoffende Seele nicht.
それは決して、愚かな頭に生まれた 空虚なうぬぼれの妄想ではない。 胸の中で高らかに告げているからだ。 我々は向上するために生まれてきたのだ、と。 そして内面の声が語る言葉を、 希望を抱く心が裏切ることはない。


つまりこの解釈では、人間というものは、向上するために生まれ、希望とは向上する人間存在への希望なんですね。でも、そのためには第1節に出てくる「世界」との比較で、人間を肯定する上で、この「世界」をおとしめることになる。
この「世界」は原文でWeltなので、直訳して「世界」は正しいんですが、僕はこれは間違いなく「自然」を指していると思う。古くなり、若がえるというのは、自然の営みのことです。つまり、年老いてまた若がえるという、向上のない輪廻を繰り返す自然とは違って、人間は向上するのだと言うことです。

僕はね、シラーが自然をおとしめるようなことを書くとは思えないのです。前述のシュタイナーの美学に関する講演では、ゲーテの美学認識の正しさを賞賛したシラーの手紙が紹介されています。この手紙の部分だけ引用します。1794年8月23日、シラーからゲーテへの書簡です。

「あなたはここの自然物に光を当てるために、自然を全体として取り上げます。自然の様々な現象形態の全体の中に、個体を解明する根拠を求めておられます。単純な有機体から、一歩一歩、より複雑なものへと昇っていき、ついには万物の中でもっとも複雑な存在である人間を、発生学的に、自然という構造体全体の中から再構築しようとされます。あなたは自然の中で、自然の営みをいわば追創造され、それによって自然の隠された技法を手に入れようとされています」

そして、よく目にすることがある、ゲーテの美学認識を良くあらわしているこの文。

「自然からその公然の秘密を打ち明けられ始めた人は、自然の最もふさわしい解釈者である芸術への抑えがたい憧れを感じる」

ゲーテとシラーにとっては、自然の向こうにあるもの、つまりその「秘密」を解き明かし、追創造することが、芸術行動だったのです。この「追創造」という言葉。素晴らしいですね。僕は演奏家として、今まで頻繁に「再現創造」という言葉を使ってきたけど、この「追創造」という言葉の方がずっと僕らの芸術家としての使命にふさわしい。これからこっちを使います。

人智学もこのシラーの言葉も、人間がこの自然界の頂点に立つ存在であることをはっきり認めている(だから「人」智学なんですね。)けど、これは人間が自然より優れていると言うことでは決してないと思う。
この観点から言うと、第3節の「我々は向上するために生まれてきた」という文は、さらに興味深い。これは文法的に素直に読むと「我々はより優れたものとして生まれてきた」と読むのが自然だと思います。そして、大事なのは、この一文の前にある「:」の存在。つまりこの一文は括弧に囲まれているような意味合いです。
僕はこれをすごくネガティブに読んだのです。そして、次の行の「裏切る」と訳されている「taeuschen」と言う動詞は「欺く」でもあり、この「我々はより優れたものとして・・・」という傲慢な思想は希望を抱く魂(Seeleなので、厳密には「心」ではない)を欺きはしない。そう言う意味ではないかと。

また、「モモ」との関連ですが、この「向上」に資本主義が重なるのです。
もちろん向上は必要です。人間はさらに向上してより高い次元の文化を獲得し、この世のありとあらゆる争いは避けられなければならない。複数の価値観を共有して、違う文化、民族、宗教に属する人間たちが理解し合わなければならない。
でも、いままず求められる種類の「向上」は常に「成績」です。会社に新しい経営陣が来ればよりよい数字を求められます。シェアを広げることが期待されます。学校でも求められるのは成績、数字としての成果です。

でも、これは必要なんでしょうか?

シェアを広げなくても、良いものを誠意を持って作り続けるのではいけないのでしょうか?
たとえば、伝統的な漬け物を、厳選された材料にこだわって丁寧に作っている人がいます。この漬け物の味は、改良されるべきでしょうか?そうではないと思います。
大体の場合に置いて、残念なことですが良くある危険は「味が落ちる」事であり、伝統の味が存続していくことが望まれることのはずです。より目につく広告、マーケティングによってこの漬け物がより売れるようになり、大量生産の必要が生じて、生産過程がより機会への依存度を増し、味が変わっていく。良くある話ではないでしょうか。

表面的な「向上」(原文のVerbesserungの直訳は「改良」)は、決して良いことではないと思います。
単に向上を望むのが人間で、それを褒め称えるのでは、あまりに当たり前すぎるし教訓的に過ぎるとも思います。僕の解釈を訳にすると次のような感じです。あえて原文にない言葉を足してわかりやすい文にしてみます。


将来のよりよい日々のことを
人々はいろいろと語り夢見るものだ。
人々が、「幸福な」「金色に輝く」目標を求めるあまり
心を失って、走り、疾駆していくのが見える。
自然は年老いて、再び若がえる、
だが人間はいつも「向上」ばかりを望んでいる。

希望が人間にこの世の生を与え
希望が朗らかな子どものまわりにはためき、
希望の魔法の光が青年を引きつける。
そして希望は老人とともに埋葬されはしない。
なぜなら老人は、その疲れた生を墓で終える時にも、
その墓の傍らに「希望」を植えるのだ。

その妄想は決して空虚で甘えた妄想とは言えない。
愚か者の頭で生まれてしまった妄想なのだ。
心の中で高らかに告げられる。
「我々はより優れた者として生まれてきたのだ」と。
しかし、内なる声が話しかける。
「こんな妄想は、希望を抱く心を欺きはしない」

フーゴーとの討論でネックになったのは、第3節の冒頭です。erzeugt(生まれる)で始まる節が、文法的に従属節になっていないし、僕は「妄想」を主語にした文として並列に考えたんだけど、フーゴーは、これは実は従属節だという。でも動詞が後置されていないよ、と僕が言うと、「これは詩だから良いのだ」という。
もちろんです。詩ですから。散文じゃないのでそう言うのはありだけど、その文のまま普通に受け取る方が普通なんだから、それで僕の主張するノーマルな訳を否定する理由にはなり得ない。
文法的により疑問だったのは前にも問題にした第3節の「我々は向上するために生まれてきた」という部分で、ここでの「向上する」と訳されている「Besserm」はここでは大文字で書かれて名詞化しているし、「向上する」「改良する」という動詞の「Verbessern」みたいな訳し方ははっきり違うように思うのです。


あと大事なのは、ドイツ語での、「心」「魂」「霊(Geist/ガイスト)」などの言葉の微妙な意味の違いです。日本語文化では、魂と霊の違いはあまり問題にされず、両方「心」という感じで処理されると思いますが、ドイツ文化、特に人智学では「魂」と「霊(ガイスト)」は全く違う意味なんです。
「魂」は、快と不快を感じるところです。「霊(ガイスト)」というと、日本語ではお化けと関連がありそうに見えるけど、そうではなくて、知性が宿っているところです。
例を言いますと、こんな感じ。今日の朝、すごく朝焼けがきれいだったんですが、この朝焼けを見て「ああ、きれいだなぁ」と感じているのは「魂」で、いま、今朝の朝焼けを思い出して「きれいだったなぁ」と感じているのは「霊(ガイスト)」です。

そして、「内なる声」というのは、さらに違うのです。これは別に人智学的に定義されているかどうかは知らないけど、僕の受け止め方では、自分の中に響く内なる声は「大いなる者」の声なのです。例えば神様とか。
僕は、劇場に対する思いを同じくする仲間と共有するボキャブラリーとして「劇場の神様」という言葉を持っています。これは、本当に存在するのです。
僕らが真摯に作品と向き合って、そこに書かれている音符や言葉が僕らに語りかけるメッセージに本当に心を開けた時、そして、そのメッセージを僕らのやり方で「追創造」した時に、劇場の神様がやってくるのです。そして劇場はものすごい「一期一会」を作り出し、その時居合わせた観客の皆さんには忘れられない瞬間として刻まれるのです。

これは、僕らがいくら頭をひねって、理屈をこねたり、目をひくことをやろうとして工夫しても全然近づけないゴールです。大切なのは、作品を理解すること。
そして、理解するには「帰依」が必要。これはシュタイナーの考えですが、僕は全面的に賛成です。その作品を留保なしに受け入れる姿勢がなかったら、その作品を理解出来るわけがない。ましてや、その作品の向こうにある「秘密」そして、その秘密にたどり着いた時に聞こえてくる「内なる声」を聞くのは全く不可能です。
「この作品は出来が悪いから、変更を加えて上演する」という理屈の元に、作品の設定を変え、歌詞を変えて、自分のオリジナリティ誇示のためだけに、滑稽としか言いようのない演出で上演されているオペラが、ここドイツで如何に多いか。これは僕は目の当たりにしています。こういう上演を引っ張っている人たちは、作品を理解するという最初のステップでボタンを掛け違えているのです。そして、作品は解釈者の「道具」「材料」に成り下がり、観客は肉体性を伴わない知的遊戯でしかない「新演出」を見て、これがオペラだと思わされる。こんな不幸なことはありません。

本当に「すごい」演奏家というのは、自分を押しつけないものです。神がかりという言葉がありますが、これはまさにその作品、あるいは音楽そのものへの留保無き信頼、帰依があるから実現されるのです。
僕にとって、この「帰依」の仕方がすごい演奏家としてすぐ思いつくのは、ドイツ歌曲の大家、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウです。これは本当に徹底しています。彼が歌っていると言うより、何か「大いなる力」に歌わされている感じです。だから、良い意味で「お留守」で「自由」なのです。
ディースカウのあとに出てきた若いドイツ歌曲演奏家の中に「僕をディースカウ二世みたいに言わないでほしい。僕は僕だから」というようなことを言う人が何人もいますが、この発言を聞くだけで、僕は溜息をついてしまいます。「僕」はどうでも良いのに、と思うからです。

改良、向上すべきは「質」です。それも人生の質です。決して量でもシェアでもありません。量、効率に追われて、時間をなくし、心をなくした人たちがどうなっていくか、また、心をなくさずに「内なる声」を機構とする人たちがどうなっていくか。これは「モモ」に、この上なく美しい形で描かれています。読んだことのない方は、是非是非、読んで頂きたいと思います。
人生の質を上げていくうちに「内なる声」を多く聞けるようになり、それこそが「自我」の確立なのだと思います。この「自我」は、肉体、魂、霊、の上に存在する第四の要素なのです。最初の話に戻りますが、ここへたどり着こうとすることが、僕にとってはシューベルト演奏へのステップな様な気がするのです。今まで自分がシューベルトを演奏する準備ができていないように無意識に感じていたのは決して間違った感触ではなかったのだ、と思っています。

あー長かった。でも一気に書いてしまった。この辺の想いが絡み合っていて、言葉にしたい欲求が煮詰まっていました。人智学の本を一気に読みすぎて、その辺のことをあまり日記でも書いていなかったので、その辺もいつかちゃんと説明したいと思っています。
このエッセイは長くて、もしかしたら読みにくい文かと思いますが、最後まで読んで下さったあなたへの感謝で締めくくりたいと思います。どうもありがとう。


(2005.4.14)